「勝てるチームを作る」
車いすバスケットボールのパラリンピアン・藤井郁美が目指したチームビルディング
悪性骨肉腫、潰瘍性大腸炎、そして乳がん――。元車いすバスケットボール選手の藤井郁美氏は、生死をさまよう経験をしたことで、「人生に後悔したくない」と競技に真剣に向き合うようになりました。20代前半で日本代表選手に、30代半ばで主将に抜擢され、「チームで勝つ」を目標に、競技に励み続けました。東京2020パラリンピック後に引退した藤井氏が、新たなキャリアで生かす現役時代の経験とは?
車いすバスケットボール
ルールは一般のバスケットボールとほぼ同じ。1チーム5人の選手がボールを奪い合い、ゴールにボールを投げ入れて、得点を競い合う。使用するコートやリングの高さも一般のバスケットボールと同じ。障害のレベルによって1.0〜4.5の持ち点が定められていて、試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはいけない設定となっている。
障害を負った自分を受け入れられなかった
右太ももに、ソフトボールほどの腫れができたのは中学3年生の秋頃でした。バスケットボール部で活動していた藤井郁美氏は、日常生活においても痛みを感じるようになり、病院へ行きました。
検査を進めるなかで疑われたのは、「がん」でした。当時15歳だったこともあり、「自分ががんになる」というイメージがつかめなかったなか、検査結果で悪性骨肉腫と診断。足にできるがんでした。
即座に治療が始まり、若いがゆえに体力があると見込まれて、強めの抗がん剤が投与されました。その副作用で毎日嘔吐をしていた時のことを、「妊娠中のつわりの何百倍もつらかった」と藤井氏は表現します。
「発症してすぐに治療となり、骨肉腫を取り除く手術で人工関節に。病気自体は受け入れざるを得ない状況でした。ただ、障害を負ったことで変わってしまった自分を受け入れるのは難しかったです」
治療に専念したことで1年遅れて高校に進学。これまでのバスケはできなくなってしまいましたが、マネージャーとしてバスケ部に入部しました。
車いすに乗ってでもバスケができるよろこび
当時のバスケ部の顧問の先生に誘われて、車いすバスケのチームの練習を見に行った藤井氏。日常生活では車いすを使用していないこともあり、「自分よりの障害の重い選手がプレーをしている中で、自分が本格的に車いすバスケをするイメージがわかなかった」と振り返ります。
その後、趣味の範囲で車いすバスケをしていましたが、高校3年生の時に転機が訪れます。潰瘍性大腸炎を患ったことでした。
生死をさまようも、一命を取り止めた藤井氏。「10代でいつ死ぬかわからないという体験をして、人生において後悔したくないという強い思いが芽生えた」と言います。
「家族をはじめ、たくさんの人に心配をかけました。もう一度バスケをしている姿を見せられたら、恩返しになるのではと思いました。それに、車いすに乗ってでもバスケができるよろこびを痛感し、本格的にやってみようと思って競技志向になりました」
元々バスケの経験はあったものの、車いすの操作は初心者です。競技用車いすに乗るだけで、腕が筋肉痛になるほどでした。最初はひたすら操作の反復練習を繰り返し、約2年かけて車いすを思い通りに動かせるようになりました。
障害が比較的軽い藤井氏は素早く動き回れたことで、ポイントゲッターの役割を担うように。身長は160cmに満たないため、相手選手にシュートブロックをされないよう素早くシュートを打つスキルを習得し、それを強みに実績を残していきました。
意識的に作ったコミュニケーションの場
初めて日本代表選手に選ばれたのは、2005年の23歳の時。プレーやチームにおいて、「もっとこうしたらいいのに」と思うことは多々ありましたが、若手だったことに加え、チームとしても強かったので、なかなか発言することができませんでした。
状況が変わり始めたのは、2008年の北京パラリンピックのあと、日本代表チームがパラリンピック出場の機会を逃し続けたことでした。
“勝てないチーム”になってしまったのを目の当たりにした藤井氏は、「何かを変えていかないといけない」と強く思ったといいます。そして、2016年から日本代表のキャプテンに抜擢されてからは、チーム改革をしていくことに。
目標にしたのは、「チームで勝つこと」。
「そのためには年齢や経験を問わずに発信や受信をできる環境を作り、コミュニケーションの大切さをチームで共有しようと思いました」
合宿中は、少人数のグループを作り、午前と午後でミーティングをするなど、お互いを知る機会や意見を言い合える場を積極的に作っていきました。コミュニケーションの場を意識的に作ったことで、チームは変わっていったといいます。
「バスケは展開が速い競技なので、戦術一つにしてもコーチが意図していることを選手自身がくみ取って、すぐに表現しないといけません。コミュニケーションが活発になることで、選手間はもちろん、コーチとも共通認識が密にでき、東京2020パラリンピックでは、お互いに言わんとしていることがわかる関係性の中で戦えました」
そして、藤井氏が主将を務めた東京2020パラリンピックで、日本代表チームは6位という結果を残しました。
「最後には、最年少の選手が積極的に発言し、それを年上の選手が受け入れることが当たり前の環境になっていました。『勝てるチーム』を作ることができ、大仕事をやり遂げた感覚があります」
“パラスポーツの日常化”を目指して
藤井氏はあらかじめ東京2020パラリンピック後に現役を引退することを決めていました。その背景には、2017年に乳がんを発症したことがありました。投薬しながらもチームの勝利に貢献し続けた藤井氏。
引退後、「20年間、なぜここまで車いすバスケを突き詰められたのか」を自問自答する機会が増えたと言います。
「現役時代、私のプレーを見てくれた方から、『明日学校に行くことを決めました』と手紙をいただいたり、『元気をもらいました』と声をかけてもらうことがありました。自分が誰かを動かすきっかけになったことは、すごいことだと改めて感じています」
現在は電通デジタルの社員として、所属アスリートの支援やパラスポーツ普及に向けた広報などの仕事をしながら新たなキャリアを歩んでいます。
「車いすバスケで培ったチームビルディングやコミュニケーションの方法は、仕事にも生かしていきたいと思っています。そして、休日に野球やサッカーを見に行く感覚で、『今日は車いすバスケを見に行こうか』と家族や友人の間で会話が飛び交ったらいいなと。目標に据えているのは、“パラスポーツの日常化”です」
数々の逆境を乗り越えてきた藤井氏。今後は女性選手への乳がんの啓発活動など、引退後も変わらず、自分の活動で、誰かの何かを変えるきっかけを生み出していきたいと話します。
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