脳性麻痺で初の日本代表選手を目指すシューター
車いすバスケットボール選手・山下修司の「予測力」
先天的な脳性麻痺の山下修司選手には、四肢障害そして手指障害があります。中学校で車いすバスケットボールを始めた時、ボールがゴールに届かず苦戦。それが今では「得意です」と力強く答えるまでに変化を遂げました。脳性麻痺の車いすバスケ選手では日本代表になった人はまだいない中、そのパイオニアとなれるよう日々鍛錬を重ねています。
車いすバスケットボール
ルールは一般のバスケットボールとほぼ同じ。1チーム5人の選手がボールを奪い合い、ゴールにボールを投げ入れて、得点を競い合う。使用するコートやリングの高さも一般のバスケットボールと同じ。障害のレベルによって1.0〜4.5の持ち点が定められていて、試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはいけない設定となっている。山下選手のレベルは2.0だ。
ボールがゴールに届かなかった
山下修司選手が競技と出会ったのは、中学生の時、母親から「(母親が勤める)会社の裏に福祉体育館があって、そこで車いすバスケットボールの人たちが練習しているよ」と教えてもらったことでした。
小学校時代はソフトボールに勤しんでいた山下選手ですが、小学5年生の時に脳性麻痺に関する手術をした後、スポーツから離れていました。元々運動が好きだったこともあり、試しに車いすバスケの見学に行ったところ、「やってみよう!」と声をかけられ体験することに。第一印象は、車いすの操作が難しかったと振り返ります。
「車いす同士のぶつかり合いの激しさに衝撃を覚えた一方、体全体が車いすにホールド(固定)されているので、守られているという安心感はありました」
車いすバスケのコートの大きさやゴールの高さは、健常者のバスケと同じです。山下選手は腹筋と背筋はある程度使えるものの、手指に障害があり、最初はシュートをしてもボールがゴールに届かない日が長く続きました。
それが現在、所属チームでは得点の稼ぎ頭「シューター」としてプレーをするまでに変貌を遂げています。
「シュートが苦手で、嫌いになりかけたこともありますが、今ではミドルシュートが得意と言えるようになったことはよかったと思っています」
「予測」をし、他の選手と同じ土俵に立つ
成長を遂げた理由の一つに、中期目標を設定したことがありました。競技を始めて間もない15、16歳の時、当時のU23日本代表アシスタントコーチに「6年後の世界選手権を目指そう」と声をかけてもらったといいます。そして、その目標に向けて競技に打ち込み、実際にその目標を達成した山下選手。ゴールに向けて逆算し、日々の練習をコツコツと積み上げていきました。
「特に体の柔軟性は意識しましたね。脳性麻痺により筋肉が硬直して可動域が狭くなることもあるので、トレーニング前のストレッチやケアに関しては誰よりも時間を費やしました」
それでも、競技をする上で「つらいな、苦しいなと思うことの方が多いです」と吐露する山下選手。そんな時、自分を鼓舞する言葉を思い出すといいます。それは、日本代表のヘッドコーチに言われた「脳性麻痺で日本代表になった選手はこれまでいない」という一言でした。その一言で『先駆者として日本代表選手になりたい』と強く思ったといいます。
「脳性麻痺は、脳が損傷を受けているような状態です。一般の人と比べ、目から脳、脳から体に情報が伝わるまで少し時間がかかります。そのため、速いパスが取れないなど、反射的な動きに影響があります」
バスケットボールは攻守が素早く切り替わるため、それに対応する力とスピード感が求められます。山下選手の場合、頭の切り替えが追いつかなかったり、たとえ切り替えができたとしても頭から体に情報が伝わるまで時間がかかったりするのが日常茶飯事です。そのハンデをカバーするために、「予測すること」を重視していると話します。
「予測して動くことで、ようやく他の選手と同じ土俵に立てる感じです。でも実際にやってみるとかなり難しい。同じ障害の選手もこれまでたくさん見てきましたが、続かなくて辞めていく選手が多いのが現状です」
地元・長崎のチームをより良くしたい
チームスポーツのバスケは、チーム全体で点を取り合うことが醍醐味の一つです。シュートを決めるまで仲間たちとどう動くかが、健常者のバスケよりも求められるといいます。
「例えば、スクリーン(仲間が相手選手にとっての“壁”となり、相手の動きを封じるプレー)一つにしてもかかりづらいとか、通れると思ったスペースに車いすが通らないこともあります。シュートを決める過程において、仲間の動きやサポートが普通のバスケよりも大きい分、決まった時の喜びは大きいです」
2023年に、地元の長崎から神奈川県に拠点を移した山下選手。現在は車いすバスケ界で日本一のチームに所属しています。当初カルチャーショックだったのは、コート上では年齢関係なくお互い自分の思うことを言い合い、意見を共有し、すり合わせていくことでした。最初はその雰囲気に呑まれ、言いたいことが言えなかったと振り返ります。
「日本一のチームに来たこと、そして、選手たちのレベルが高いこともあって『はい』としか言えませんでしたね。意見があっても、ぐっと飲み込むことが多かったんですけど、入団して2年目には自分の意見も発信できるようになってきました」
直近の目標は、年に1回実施される選考会「男子ハイパフォーマンスカテゴリー」と呼ばれる強化選手に入り、日本代表のA代表入りに近づくこと。そして、第一線を退いた遠い将来の展望は、長崎県で車いすバスケを教えることだと話します。
「地元のチームをより良くしたいという思いがあります。日本一のチームで得たものを、地元に恩返ししていきたいです」
脳性麻痺のプレーヤーとして初の日本代表選手が誕生する日は、そう遠くない未来かもしれません。
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