教師志望の元高校野球児から世界で戦うアスリートに
パラやり投げ選手・若生裕太が考えた「恩返し」
甲子園出場校の野球部で主将を務めていた若生裕太選手は、体育教師を目指していた20歳の時に難病のレーベル病を発症しました。家族や友人に助けられる中、芽生えた感情は「自分は何で恩返しができるか」。その目的を達成するための“手段”として始めたパラやり投げですが、今では新たな感情が芽生え始めていると若生選手は言います。
パラ陸上競技・やり投げ
パラ陸上競技には、車いす、義足、視覚障害、知的障害など、様々な障害のある選手が出場する。視覚障害の選手は 11〜14の番号に分けられ、数字が若いほど障害は重くなる。若生裕太選手のクラスはF12で、「F」は投てき種目を表す。パラやり投げのルールは、健常者のやり投げと同じ。
母に「迷惑をかけた」と言わせたくなかった
きっかけは、大学2年生のとある日、簡単なキャッチボールの球をキャッチミスしたことでした。野球サークルの仲間に「飲みすぎじゃないの」とからからかわれた時、若生裕太選手は「そうかも」と笑って返しました。けれども、その後も野球をするうえで“ミス”が続きました。
「何かおかしい……」
左目を閉じると、開けている右目から見える景色の真ん中が少しぼやけていました。最初の違和感から約数カ月が経った頃、右目の視力が大幅に落ちていることに気づきました。
「これは完全におかしいと思ってネット検索をしたところ、症状がレーベル症という病に酷似していると思いました。この病気は、最終的に両目の視力がかなり落ちてしまう難病で、『自分は将来何も見えなくなるのでは』と恐怖に駆られました」
予想通り、検査結果からレーベル遺伝性指神経症と診断。視界の中心が見えなくなる遺伝性の病気で、かろうじて視力が残る場合もあれば、全盲になる場合もあり、現在は治療薬がありません。
医師から遺伝性のある病名を告げられた時、同席していた母親が涙ぐみながら「なんで私が(息子に)迷惑をかけてしまうのか……」と言いました。自分のことを責める母親の姿と言葉を受け入れられなかったと若生選手は振り返ります。
「小学生の頃から好きなことをさせてもらっていたのに、母に『迷惑をかけてしまった』なんて言わせたくありませんでした。病気を受け入れ、前向きな姿勢でいることを示したいと強く思いました」
パラアスリートになるまでの「覚悟」
元高校球児で、体育教師を目指していた若生選手。大学2年の冬には両目の視力がほぼ落ち、授業についていくのが難しくなりました。単位取得も危ぶまれましたが、友人や先生に支えられ、無事に大学を卒業することができました。
「視覚障害があっても体育教師になれる可能性を探ったのですが、『誰かに頼らざるを得ない状況となった時、体育教師としてやりがいを感じることができると思うか?』と自問し、それは『難しい』という結論に達しました」
視覚障害者としてどう生きていくかを考え始め、眼科の医師に将来どういった仕事があるかを聞いたり、視覚障害者のイベントに参加をしたりと、情報集めに奔走しました。
その中でよく言われたのが、「パラアスリートになってパラリンピックに出場したら?」という言葉でした。しかし最初は、「覚悟が持てなかった」と若生選手は言います。
「野球のプレーヤーとしては一線を退き、次は野球を始めとするスポーツをする人をサポートする側を目指していた中で、『障害を負ったからパラアスリートになります』と簡単に切り替えるのは考えが軽すぎるのではと思いました。それに、甲子園出場を目指していた人間なので、本気でスポーツに取り組むということは、どれくらいの練習量や熱量が必要かわかっていました。まして、世界を目指すとなると……。生半可な気持ちでは踏み切れませんでした」
迷い、葛藤し、自問自答を重ねました。しかし、若生選手の軸にあったのは、「どうしたら恩返しできるか」でした。
「前を向いている姿を形にしようと思った時、自分の身体能力を生かしたパラスポーツで活動することに可能性は感じていました。そんな中、たまたま野球選手からやり投げ選手に転身した人の新聞記事を読みました。その時、直感で『これでいく』と心が決まりました。大学の先生に、『やり投げでパラリンピックに出場します』と宣言し、2018年6月からパラ陸上のやり投げ選手としての活動をスタートしました」
東京パラリンピック出場を逃した理由
競技を始めてからの1年は絶好調だったという若生選手。野球で鍛えた肩は投てきでも生き、好成績を残し続けました。
「怖いもの知らずで、とにかくやってやろうという気概が良かったのだと思います。でも、トントン拍子に行くはずがないこともわかっていました。何とか東京パラリンピックまで、この上り調子が続いてほしいと思っていました」
その期待とは裏腹に、東京パラリンピック大会選考前にスランプに陥ってしまった若生選手は、パラリンピック出場の切符を手に入れることができませんでした。その理由を、「投げなきゃ」という焦りにも似た思いが先行してしまい、体の使い方が小さくなってしまったと分析します。
「自分が投げている姿の動画をコマ送りにして、足の使い方や、クロス(投てきの直前にやりを構える姿勢)の際の腕の位置などを細かく確認していました。しかし、そうしている内に1つ1つを意識し過ぎてしまい、一連の流れで投げられなくなってしまいました。東京パラリンピック出場から外れたのは本当に悔しかったですが、すぐにパリ大会出場へと目標を切り替えました」
その後、やりを投げる際は頭で考えずに、体を自然に使いこなせるよう、動画をコマ送りで見ることを減らした若生選手。今は体を大きく使い、一連の流れの中で投げられる練習を繰り返しています。その結果、2022年シーズンは自己ベストでスタートすることができました。
「今は記録よりも、理想とする“投げ”のイメージを作り、再現性を高めることに重きを置いています。実際、得点の平均値も安定してきているので、やっていることは間違っていないと思っています」
目的達成のための「手段」だったやり投げ
パラリンピックパリ大会に向け、体力面は理想の形に近づいているものの、技術面に関してはまだ世界との「差」を感じていると話す若生選手。今は焦らず、地に足をつける時期と捉え、反復練習を繰り返しています。
「競技を始めた当初、やり投げは『恩返し』するための手段に過ぎませんでした。でも気づいたら、やり投げのことばかり考えている自分がいました。今では、やり投げは自分を高めてくれる存在です。以前はパリ大会出場後に現役引退を考えていましたが、2024年以降も競技を続けているのだろうと思っています」
1日1日と進化し続ける若生選手。
家族、仲間、サポーターからのエールを追い風に、その勢いはさらに加速しそうです。
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