「世界で活躍する選手になる」37歳で競技転向
最速で目標へと駆け上がるボッチャ選手・有田正行の“二つの強み”
15年間の電動車いすサッカー選手のキャリアを手放し、37歳でボッチャ選手に転向をした有田正行選手。ボッチャを始めてから1年で強化選手に選出、5年後には日本選手権で優勝を飾るなどの実績を上げました。最短でパラリンピック大会出場への目標に向け階段を駆け上がる有田選手の強みとは?
ボッチャ
重度脳性麻痺者もしくは同程度の四肢重度機能障害者のために考案されたスポーツ。赤と青のそれぞれ6球ずつのボールを投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりして、ジャックボール(目標球)と呼ばれる白いボールにいかに近づけるかを競う。障害によりボールを投げることができなくても、勾配具(ランプ)を使い、自分の意思を介助者に伝えることができれば参加可能。有田正行選手は、最も障害の重いBC3クラスに所属。自己投球ができないためランプオペレーターと呼ばれる競技アシスタントの妻によるサポートで投球している。
「障害があっても、自由に生活できる」
先天性の難病脊髄性筋萎縮症(SMA)の有田正行選手は、気管支系が弱く、幼少期から日常的に入院生活を送っていました。入院先の病院に併設の特別支援学校に通っていたため、小学生の頃から親元を離れて暮らしていました。
同じ境遇の同世代の仲間や職員と共に過ごす日々は楽しく、ホームシックにはならなかったと振り返ります。
早い段階で「どうやったら社会で生活できるのか」を考えて続けていた有田選手。転機となったのは、小学校高学年の時、親に電動車いすを買ってもらったことでした。
「電動車いすがあると、自由が利くことを知りました。障害があっても、サポートしてくれるモノをそろえ、人を頼ることで、自由な生活を送れるイメージを持つことができました」
高校卒業とともに病院での暮らしを卒業し、一人暮らしを始めることに。親の力を借りるのではなく、ヘルパーなどのサービスを活用し、ひとりで生活をしていく基盤を作り始めました。
元々、ラジコンや車などの機械が好きだったこともあり、メカニックへの関心と知識は、後にパラアスリートとして活動するうえで大いに役立つ要素となります。
失敗を生かした、ロードマップの描き方
社会人になり、在宅で内装のデザインの仕事をするかたわら、スポーツをしようと思い、電動車いすサッカーを始めることにした有田選手。
地元の兵庫県のチームに加入するものの、同好会的なチームだったため試合で良い成績を残せず、わだかまりを感じていました。電動車椅子サッカーをやめるかどうか考える中、「本気でやってみよう」との思いに至った有田選手は、自分でチームを立ち上げることにしました。
設立当初から、チーム目標は「日本一になること」、そして、個人目標は日本代表選手になり、「世界で活躍する選手になること」を思い描き、そのための逆算をしました。
4年で日本一になる目標を掲げ、それに同意するチームメンバーを採用。週4回ほどの練習を重ねました。徐々に仕事との両立は難しくなったため、競技に注力することを決断しました。結果は宣言通り、4年で日本一の座と、日本代表の地位を獲得しました。
有田選手の強みの一つは、今も昔も「ロードマップを描くこと」。大目標を立てたら、短期・中期・長期の目標へと落とし込みをします。振り返りを日課にし、その日の評価をつけ、翌日へとつなげていくことを繰り返すことで、確実に目標を達成していきます。
「過去には、目標を高く設定し過ぎてしまい、オーバーワークになったり、方針がブレてしまったりしたことはたくさんありますが、その失敗が今に生きていると感じます。今では自分の現状を把握したうえで、実現可能な計画を立てています」
理系の知識が、投球の際に役立つ
しかし、電動車いすサッカーはパラリンピック大会の種目ではなく、国際大会も少ないのが現状でした。「世界で活躍する」という目標が達成できないと思い、37歳で競技転向を決意。
チームメイトに引き留められ、後ろ髪を引かれる思いもあった有田選手ですが、退路を断つために競技用の電動車いすを処分しました。
そして、目標を達成するために選んだ次なるフィールドはボッチャでした。
「個人競技だったこと、また、得点によって勝敗が決まるので、監督の好みや審査員の裁量に関係ないスポーツだったことに惹かれました。選べるほど自分ができる競技がなかったこともあるのですが(笑)」
サッカーをやめると決めた3日後に、埼玉県で開催のボッチャの体験会に参加をした有田選手。初体験で「面白い」と感じました。その場で出会ったのは、現役のボッチャ日本代表選手でした。そして、この選手に有田選手は師事することを決め、真剣にボッチャをしたいこと、そして日本一になり世界でプレーしたいという熱意を伝えました。
「日本代表選手は、その競技における本質を理解している人だと思います。スタートダッシュを切るためには、練習量と競技への集中はもちろん、“誰に教わるか”と“誰と一緒に練習をするか”も重要と考えていました」
その戦略が功を奏し、競技開始から半年後には国内の大会で3位、翌年には強化指定選手になるなど快進撃を展開。東京2020パラリンピック選考会で、わずか1点差で代表の座を逃すほどの実力までになりました。
有田選手が持つもう一つの強みは、理系の知識です。「サッカーでは電動車いすのメカニックな動き、ボッチャでは『物理の法則』の知識などが投球の際に役立っています」
2028年パラリンピックまで現役続行予定
ボッチャを始めた当初から、パラリンピックパリ大会出場を照準に合わせている有田先選手。妻である千穂さんは、競技アシスタントのランプオペレーター選手です。
「アスリートはモチベーションの維持が大切なので、落とさないように意識しているものの、やはり人間なので、負けが続くと心理的にしんどくなることもあります。でも、僕たちは夫婦で競技をしているので、お互い助け合いながらできていることは非常に大きいです。これは、競技転向して良かったことの一つです」
パラリンピックパリ大会の選考が近づいている中、予定通り順調に目標をクリアしていると有田選手は言います。そして競技者として、2028年のロサンゼルスパラリンピック大会出場までのロードマップを描いています。
引退後はパラスポーツ競技の普及に力を入れていきたいと考えている有田選手。
「生涯、スポーツには関わっていきたいですね。自分の経験を、現役選手につなげていきたいと思っています」
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