「片手ではできない」は先入観
50歳まで現役を目指すパラ卓球選手・浅井翔一 その不撓不屈の精神の源
左半身が自由に動かないパラ卓球浅井翔一選手は、中学から高校まで、健常者と同じ条件で卓球をしてきました。試合で勝てない日々が続くも、「どうすれば勝てるか、できないはずがない」と振り返ります。これまで、周りの心配を押し切り、運動や1人暮らしに挑戦。失敗を恐れないトライアンドエラーの精神が、浅井選手の成長の軸となっています。
パラ卓球
ルールは基本的に一般卓球と同じ。障害の程度によってクラス分けがあり、数字が若いほど重度となる。選手は年に一度同一クラスで日本一をかけて競い合う。車いすを利用する選手はクラス1〜5、立位の選手はクラス6〜10に分類。浅井翔一選手はクラス8に所属している。
健常者と同じ土俵で卓球を続けた
幼少期から運動が得意だった浅井翔一選手は、6歳の時に脳腫瘍が見つかりました。その摘出手術時の後遺症で、左半身に麻痺が残りました。元々右利きだったものの、左手足が使えなくなったことで突如身の回りのことができなくなりました。
小学校時代は、体育の着替えの度に親や先生に手伝ってもらっていましたが、年齢が上がるにつれて「恥ずかしい」という感情が大きくなっていった浅井選手。「自分のことは自分でできるようになろうと思った」と振り返ります。
中学生になり、卓球部に入部。当時、パラ卓球の存在を知らなかった浅井選手は、高校卒業まで健常者と同じ土俵で卓球を続けました。左半身が動かないハンデを抱えながらのため、試合では勝てない日々が続くも、卓球をやめようとは思いませんでした。
「卓球自体は好きだったので、」「どうすれば勝てるか、できないはずがない」と諦めず考え続けました。
年配のパラ卓球選手に完敗
大学進学を機に地元の大阪府から愛媛県へ住み始めた浅井選手。パラスポーツ用に開かれた施設があることを知り、興味本位で足を運びました。その時に出会ったのが、車いすで卓球をする年配の男性でした。
卓球が好きな浅井選手は、その男性と勝負をすることに。年齢的にも身体的にも、勝機があるとにらんでいた浅井選手ですが、結果は完敗でした。
「パラ卓球でも、こんなに強いのかと驚きました。思わず『パラ卓球の大会に出てみてたらどうかか』と対戦した年配の男性に誘われ、一度大会に出場してみることに。それがパラ卓球との出会いでした」
浅井選手がパラ卓球を始めて感じたのは、中高時代の6年間、健常者の中でプレーをしてきたことのアドバンテージでした。
そして、競技を始めて1年ほどでパラアスリートとして全国大会で優勝。その勝因を「たまたまです」と浅井選手は謙遜する一方、「スピードや技術面などで自然と高い基準が身についていたことに気づきました。レベルの高い障害者選手が相手でも、『いけるかも』という希望が持てました」と言います。
パラ卓球の醍醐味は「回転」
パラ卓球の特徴は老若男女ができるスポーツであり、そして醍醐味は球にかける『回転の複雑さ』にあると浅井選手は言います。
「健常者の卓球はスピードと威力が鍵になる一方、スピードがあまり出ないパラ卓球では回転の比重が重くなります。いかに回転をかけ、そして、いかに相手がかけてきた回転を読むかが重要になります」
これまで、何万回も球を受けてきた浅井選手は、回転の変化への対応が体に染み込んでいるといいます。
「相手の回転をどう受けて返すかは、相手の打ち方を見て、その場その場で柔軟に対応しています。相手の苦手な所を見つけて、その後の展開を有利にする配球を考えます。」
これまで何度も戦術を変えてきた浅井選手。チャレンジをしても、結果的に定着しなかったことは数多くありますが、「今はまだ成長段階なので、長い目でスタイルを変えて、自分のものにしていきたいと思っています」と前向きに捉えています。
障害の「害」にいかに勝っていくか
卓球のことを語る際、顔をほころばせながら楽しそうに話す浅井選手ですが、その明るい性格とポジティブな思考の背景には、幾度となく経験している挑戦と失敗にありました。
障害を持ってから、心配する家族や学校から挑戦を止められる機会は多くなっていきました。それでも、浅井選手は自分の「やってみたい」という気持ちに従い、チャレンジを続けていきました。
「小学校の時、体育の跳び箱の授業で、片手で挑戦してみたら意外とできたという成功体験をしました。それからは、マラソンをしてみたり、運動会で『50人51脚』をしてみたり。できることを増やしていくことで自信がついていきました。」
工夫をこらして試行錯誤した結果、生活をする上で必要最低限のことができるようになりました。このトライアンドエラーの精神が、浅井選手のポジティブな思考の源になっています。
「周りからすると、障害はネガティブなイメージなのかもしれません。でも僕の中では障害の『害』にいかに勝っていくかと考えていて、“障害”ではなく“勝害”と捉えています。“できない”と守りに入ってしまうと最後に勝てない。卓球と同じです。自分の内と外では“しょうがい”の捉え方に大きく差があります。親から猛反対された1人暮らしも、今では10年以上続けています。」
愛媛に障害者専用の卓球場を作るのが夢
大学生時代から住み始めた愛媛県は、人がやさしく、食べ物もおいしく、居心地がいい。現在、愛媛県をはじめとする四国には、障害者専用の卓球場やパラリンピックを目指す選手の育成機関がないと浅井選手は言います。
「将来は愛媛に、パラリンピックを本気で目指す障害者専用の卓球場を作ることを考えています。僕自身は50歳まで現役を続ける予定。引退後は、パラ卓球の指導者にもなりたいと思っています」
自身のため、そして、大好きな卓球のために、浅井選手はこれからも失敗を恐れずポジティブに前進していきます。
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